昭和40年10月22日 朝の御理解
先日、昨日、一昨日でしたか、田主丸の小野先生が参ってみえてから、ちょうどここが(かんさん?)の時でしたから、あー、まあゆっくり、いわゆる自分の信心の心境を話していかれたんですが、今度、皆さんもご承知のように、あの、娘さんが急な病気で亡くなられました。もう助かるとばっかり思うておった。それがその、亡くなった。
時にその、おぉ、今までの信心で頂いておる気持ちと現在が大変、あぁ、違うということを話しておられます。例えばあの、僕は自動車、毎日毎日乗られますから、例え、あのう、衝突をしても金光様ということを唱えれる、いや、唱えなくても自分は助かるという、そのひとつの、まあ確信に似た確信をもっておったとこう、ね。
ところが、今度、娘を亡くしてから、その気持ちがもう、もろくなくなってしまっておる。そこまで自分の気持ちが、あの、するためには、あそこの何日間かというのは、もう本当に、あのう、(こけ?)のようにしておられますけども、やっぱり深刻ですね、かわいい娘を亡くするものですから、もうそれを、あの、もう本当に僕は胸が痛むということを、初めて今度、私はあのう、体験しましたと言うてくる。
まあ亡くなられてもですね、亡くなられたお届けに見えましたけれども、お届けよりもその日手術のあったことを先にお礼申されるくらいに、冷静だったですね。亡くなったから、あの、亡くなられまして、子供さんが亡くなられたら、途端に手術着に替えられて、奥さんと2人で看護婦が、あー、いつも看護婦代わりに、奥さんがされますから、もうその、死を確認して、それから3人手術されたんです、何時間かかる。
私はえらいと思うですね。それで、あくる日みえた時には、もちろん電話で、あのう、亡くなったお届けをしておられましたが、一番口にこうしてあのう、お国替えのお届けをなさるだろうとこう私が思ったところが、おかげで、誰々お願いしておりました、非常に順調に、えー、手術が過ぎましたというお届けをされとった。
それから、先生にも一生懸命御祈念をして頂きましたけれども、娘さんが亡くなったというその、それでもう、まあ毎日参ってみえて、淡々としておられるんですね、見かけだけは。ところが、実際はもう本当に何時間というものを、そのことを考え続けて、もう本当に、あのう、胸が痛くなるということを初めて体験したっちゅうて。そして、結論としてですね、あの時にああいう信心して助かったから、今度もああいう信心して助かるということはもう、には限らないということ、ね。
あの時にはああいう奇跡的なおかげを、ああいう信心で、えー、おかげを頂いたから、ああもう、あの気持ちでおれば、おかげを頂けれるといったような安易な考え方ではいけないということ、ね。同時にです、例えば、僕はその、いわゆる自動車が衝突しても自分は命を助かられるもんだとこう、自分は、確認、確信に、いわゆる似た確信をしておったと。
で、私それを聞きながら、先生、あのう、もう今度のことでそら大飛躍でしたね、信心がと、私は申しましたら、いえ、自分としては、その、神様を信じることができることができなくなったから、今度のことによって、信心がもう落ちたとこう言うておられますけれども、私はそれは、信心の飛躍だと私は思うんです。そして、後だ、そして後に、私は頂けれる、う、信心ですかね。ですから、私共がまあ椛目にそういう類型の人が多いんですね、もう親先生にお取次ぎ頂いとるけん大丈夫といったような、いうなことですかね。
ですから、あの、ここんところを、私は頂かして頂くために、うーん、おかげを頂かなければならんと思うんですけれどもね。今あの、福岡の、唐人町に「くにたけ?」という年上の先生がおられますが、この人は満州鉄橋、満州の、おー、両用でしたから、小さい町、で、布教された、非常に信念の強い先生です。その方が、この布教当時のことをいつか話されたことがございましたからですね。
もうもちろん、来る日も来る日も誰も参って来ん、御結界に奉仕させて頂いておっても、誰も参って来ん。それをその、日に一回だけです、(しな?)の、おー、いわゆる満人の、野菜屋さんが、野菜を売りに来る。庭に立ってから、そのう、表に金光教って書いてあるもんですから、あのう、金光教、金光教っていうのはしな語で「チンゴンチョウ」ってっちゅうわけですね。「チンゴンチョウ、チンゴンチョウ」ちゅって表から(?)入って来るちゅって。野菜いらないかってわけなんです。
もうその庭まで、その、しな製の野菜屋が入って来てくれるということだけが、楽しみでもありゃあ、有り難くもあったちゅって、言うておられましたですね。ところがだんだん、お参りが多くなると、その、おぉ、それが、あぁ、何ちゅう、信者の選り好みをするようになる、ね。
商売を始めた時にはもうどういうお客さんでも丁寧に、言わばその、真心をつくすけれども、だんだん商売が繁昌してまいりますとです、はあもう今日も疲れた疲れたと、もう今日んごと、もうとにかく、繁昌することを却ってその、いとうようなですね、それでお客さんの選り好みをするようになる。
そういう、私はね、信心させて頂いてからの、そういう信心の間は、確かにそら信心しとるから大繁盛のおかげを頂いておるのだけれども、なら今度は一度、今度は繁昌がなくなる、淋しくなる。例えばお道で言うならば、売れなくなってくると。と、おぉ、そこに、その、心の持ち、持っていきようが、どこへ持って行っていいやら、どこへぶちまけてよいやら分からんような、淋しい思いにならなきゃならないと思うですね。
本当に、繁昌すれば繁昌する、どういうお客さんがどういうお客さんにでもです、言うなら招かざる客に対してでも、おぉ、大歓迎という気持ちがですね、そのう、だんだん、信心によって生まれてくるようになりますとです、私は、今、例えば小野先生が言うておられるような、ところの解消ができるようになるんじゃないかとこう思いますですね。
私共が少しばっかり信心さしてもらい、少しばっかり信心さしてもらいよるとです、いわゆる確信に似た確信が、必ず誰の心にでも広がってくるですね。けども、それは本当なものではないということ。どういう、私はあのう、場合でも、信心でおれれると、ね、繁昌する時も、いよいよ有り難いなら、ね、そうではない時に、例えば、あぁ、大したお客さんじゃないお客さんに対してでも、もうそれが有り難かったようにです、それが有り難うなってこなければならない。
昨日、20日、一昨日ですね、えー、菊栄会で、えー、もうそれがひとつの例になって、大祭の、月の、おぉ、20日を、まあ菊栄会の方達が、私を、おぉ、まあ、あぁ、(?)して下さる、(録音不良)、どこにか、その席を設けて、そのう、やす、ゆっくり休んでもらうというような、あぁ、ことをなさっておられますが、今度も、おー、今ちょうど、あのう、皆さんもご承知でしょうけれども、あの、九重ですね、九重の上り口の(すじえ?)です、あちらへまいりました、ちょうどその、(すじえ?)のあの旅館街があります、そこんところの道を、今、「まさき?」さんが作ってるんです。もうそこ、そこなんです。
もうとにかく私は、あのう、えらいなあと思いました、「まさき?」さん。もう、あの、トタン張りの、とにかくあちらはですね、もう今、私が行った時が特異じゃったかもしれませんけれども、冬の布団を2枚重ねてきても寒かです、ね。そういうのに、その、トタン張りの、小屋の中でみんな、あの、妊婦さん達と一緒に寝起きしておるですね。
本当に、私、あのう、「まさき?」さんが、先に、そうして、しておりましたから、もう本当にいたれりつくせりの、おぉ、ことでございましたが、帰りを山並みを通って、熊本へ出てから、夕べ帰って来たんですけども、ちょうど、おぉ、前の日、昼まで奉仕さして頂いて、昼から、そしてその、夜一晩あちらでゆっくり泊まらしてもろうて、そして、昨日の昼から発たして頂いて、夕べこちらへ帰って来た。
もう何て言うでしょうかね、うーん、善意と真心というでしょうかね、もう善意と真心の中に、まる一日間を過ごさせて頂いたわけですけれども、もう本当に私はもう、いつも関心するんですね。例えば、あの、えー、大きな部屋を二部屋とってありましたけれども、二部屋、私の休ませて頂く部屋に、私が真ん中に寝てから、両脇には三つとってとってあると、こちらへ「まさきさん」、こちらへ文男さんが休む。私がもう、その、お水をよく頂きますし、もう何回も小用に行くんです。もう行くたんびに2人が一緒にぱっと飛び起きる事に私はもう、これにはびっくりしました、今度。
この人らは寝とらんのじゃなかろうかと思うくらいでした。それでいて、実に、自分達も有り難い、楽しい雰囲気なんですね。こういうようなものが、私は信心である人、大事だとこう思うですね。もうその、一事が万事その、(?)です。そういう中におかげを頂いてきたんですけどね、そこに、うーん、私が、部屋をとってあって、その部屋が九重という部屋でした。九重の、「九つ」の「重なる」と書いて、そこにあのう、ほんの入れたばかりの、花がございましたが、こんな大きなどんぶりに、大きな大人の白と、白と黄の菊が根に低くこう入れてあるんですね。
して、そこを全部、その根を絞めるように入れてあるのが、槙、朝鮮槙なんです。それに、真ん中に、ちょうど、野菜こぶがちゃんとしたのがあるでしょうが、真っ黒のね。ちょうど、野菜こぶを、あのこぶをつき立てたような、真っ黒く何かを塗ったものが、今あの、はやりの、塗ったやつですたいね。それが、中心にいっぱいこう、立ってるっていうと。うーん、それを聞いてくれただけで皆さん分かるだろうとこう思うけど、まあ菊栄会の方達の、おー、しん、その槙ですたいね。朝鮮槙というのは、それこそ、朝の鮮やかな、あー、槙、真心と書いて、まあ言うわけです。そいで、真心いっぱい、その善意のそうした中にですね、その、言わば、苦労をねぎらうというわけでしょうかね。
そういう、うー、そういうことの中からです、そういう例えば、あー、なるほど、まあ苦労というわけじゃあないですけれども、まあ大祭だけではない、御造営のこと、あれやらこれやらの、まあ特別の修行が言わば、椛目であっておるわけです、ね。そういう修行の中心であるところの、私を、そしてこうねぎらって下さるというようなのが、その花の中にもこう現れて、九重というのは、私はやっぱりあの、苦が重なっておるということだとこう思うですね。修行が重なっておるという事だと。
もう今度ばかりは私はいっつも言ってから、帰ったらもうやれやれって言うて、くたびれるんですけれどもね。夕べも、おぉ、久富さん待って下さっておってから、はあもうきつかったちゅうのがもういつでもその、おぉ、あれ、奉仕さしてもらおうという体制とられるんだけれども、昨日ばかりはもうきつさが全然ないです。もう5時間半から車に乗ってきておりますけれどもね、うん。
もう本当に、言わば疲れ休めと言うなら、こげな素晴らしい疲れ休めは初めてでした。そういう中に、まあおかげを頂いて来たんですけれどね、そして、あのう、うーん、まあいろいろ思ったのが、一番今、初め私が申しました、小野先生の、この心境ですね。そこんところにはもう、何でしょうかね、ね、親先生をこういうふうにすりゃあ、自分達がおかげを受けられるといったようなものじゃないということですね、ね。
同時に、いー、先生が行ってあるとじゃから大丈夫といったようなものではなくてですね、やっぱり、そこんところの信心をちょっと超越した人たちが、中心になっておかげを頂いておるということですね。ですからもう本当にお取次ぎを頂きぬき、私が、実を言うと私は本気じゃなかったんですけれども、休みがけに明日は5時の総御祈念ばいって私が言うとったもんですから、もう私が5時前ちょうど10分くらいに起きたんです。
そしたら、もう「まさき」さんも、2人共ら、もうちゃんと起きて身じまいしておりますし、襖開けたらもう向こうにさっと4人連れが並んで、ちゃっとこうして、あのう、もう、御祈念ができるばっかりに待っておりますもん。はあとこれはほんなこと御祈念せんならんばいなと思うてから(笑)、それから、ぱっと着替えて御祈念さして頂いた。
そういう雰囲気なんかも、やっぱり他の会ではできないような感じがするんですね。本当にあのう、いつも私、菊栄会の話をすると少し褒めすぎますけれども、やはり椛目の信心をちゃくちゃくとして、自分に身につけていきよる、信心せよとは厄事ばっかりというのではなくてです、やっぱりおすがりし抜いていかなければできないと、そして、自分たちはおかげが頂けれると、いうそのう、確信に似た、確信ではなくてですたい。本当の確信というものが、本当に、こうできていきよるといったような感じを、その中から受けさして頂いて、有り難いと思うたんですけれども。
どうぞ、信心さして頂いて、あん時には、だからもう、そん時そん時にですね、同じであってはならないということ。もういつも新しいひとつのアイデアがなからなければならない。いつも、おー、新しい信心がなされていかなければならない、思いつきも信心の、おぉ、いわゆる進め方の上においてですたいね。やはり、ひとつの難儀に直面して、おかげ頂けれるとばかり思うておったものがおかげ頂けない場合でもです、私はこの先生が偉いというのが、それでもやっぱりあの、それこそ胸が痛いような思いをしながらでも、もう(ほけんごと?)しながらでも、椛目通いをやっぱりしておられるということですね。そして、自分でも気が付いてないけれども、神様が確信のおかげというものを確信することができなくなったと、言いながらです、信心とはそんなもんじゃあないということをもう通り抜けておることが有り難い。
だから先生、僕はひとつもおかげとは思わんのですけれども、これが何年かの後にあれがおかげじゃったということがなら分かるわけでしょうねって言われるんです。そうなんですよと言うて、私の体験を話したことですけれどもです、そこんところを通り抜けさして頂いて、いわゆる真の信心と言うか、真実の信者というのができていくのじゃないだろうかと。
そこから、言うなら、うーん、繁昌しておる、いや、その繁昌しない時に、いー、お客さんを大事にするようにですね、言わば繁昌しても、やはりお客さんを大事にすると、言わばお粗末にしないような信心がだんだん身についてくるのじゃないだろうかと、そこから私は本当のお道の信心が、おぉ、あり方というものが、あぁ、生まれてくるというふう思う、ね。どうぞしっかりひとつ、お参りしておるからもうおかげ頂けれるという、漠然とした確信から、もう、言うなら結果はどういうようなことになってもその結果を有り難く頂けれるという信心にならなければならないということですね、どうぞ。
明渡 真(7/14)